2008年12月11日 木曜日  著者: 山田八王子

2008年ノーベル物理学賞 益川敏英教授の記念講演をテキスト起こししてみました。
全文起こそうと思いましたが、30分ほどの動画の25分以上、難しい専門用語が延々続いたため断念し、抜粋になってしまいました。ノーベル賞の記念講演ってこんなに専門的な話をするもんなんですね。「感謝」と「生い立ち」と「子供たちへのメッセージ」くらいだと思ってました。

I am sorry.I can not speak English.

まず最初にスウェーデン王立科学アカデミーとノーベル財団に、私が夢にも思わなかった、この栄誉を与えていただいたことに感謝します。

私は、家具職人の息子として日本の地方都市、名古屋で1940年に生まれました。父は、家具職人として住み込みの修行時代に電気技師への転職を希望して通信教育を受けていました。しかし、悲しいかな、十分な基礎教育を受けていなかった父には、sin、cosが理解できませんでした。最終的には、数人の職人さんの協力を得て、自分も職人として働く小さな家具工場を営んでいました。これも自国が引き起こした悲惨で無謀な戦争で無に帰しました。

戦後は手元に残った家具の扉の金具やモクネジを軒先に並べて置いたところ、けっこう売れたと言います。これに味をしめて物を売る職業、具体的には生菓子材料としての砂糖を商う商人になっていました。しかし、若い頃に勉強した電気の知識を自慢したかったらしいのですが、話し相手が見つかりません。よくよく見ると目の前に息子がいる。これで私がターゲットにされました。

戦後の住宅環境の劣悪な中で、ほとんどの家庭には風呂は無かったので銭湯に通っていたのですが、そこへの行き帰りに自分の知識の自慢話を息子にしたのです。「どうして三相交流モーターが回るのか、日食月食は毎月起こらないのか、それは地球の太陽をめぐる公転面と月が地球をめぐる面が5度傾斜しているからだ」、と自分の知識を自慢していました。だから、私は学校の成績は良くないのですが、先生が教科書通りでない話題に脱線したときなどは、それをフォローして質問に答えられる おかしな少年でした。

両親は子供の学習を毎日注意深く観察し、学習を手助けしてくれるような家庭ではありませんでした。実際にこのような話があります。何を思ったのか、母親が自分のところの子供が家庭で勉強しているのを見たことがない、そこで父兄会で先生に、「たまには宿題を出していただかないと子供が勉強しません。」と話した。逆に先生から「毎日宿題を出しているが、お宅の息子さんは一度も宿題をしてきたことがありません。」と先生から逆に注意されたらしい。その夜は大変です。両親から2時間たっぷり説教をくらいました。

私が強烈に物理学者になりたいと思うようになった契機は、高校に進学してからやって来ました。「友達が高校に進学するから自分も」ぐらいの動機で高校に進学したのですが、一年か二年の間であったと思います。地元の大学の、名古屋大学の坂田教授が、「陽子、中性子、ラムダ粒子を基本構成子に選んだ画期的な複合粒子模型を発表した」、と新聞で報じていました。

その頃の私は大変幼く、化学がヨーロッパで19世紀までに作られてると思っていました。これが日本の首都東京の出来事であったなら私の人生も変わっていたかもしれません。私の住む名古屋の地で今、化学が作られている、ならば私もそれに加わりたい、と強烈に思いました。

しかし、父は自分の始めた商売を息子に継いで欲しかったらしいんですが、それを強く希望していました。だから大学受験は一回のみで失敗は許されませんでした。それから名古屋大学受験にむけて猛烈な勉強が始まりました。

無事に大学に進学できると、大学での授業は高校までのそれとは大いに違い、大変刺激でした。大学で最初の授業は、数学の解析学でした。Archimedes(アルキメデス)の公理があって、正の数ε(イプシロン)とδ(デルタ)が与えられたとき、ある数Nがあって N ε > δ とできる、と。そしておもむろにDedekind(デデキント)の切断の講義が始まりました。「なんだこれは!」大変なカルチャーショックでした。

大学の授業が始まると、大学での経験するものは皆刺激的でした。新しい物に触れるごとに「自分はこの分野に進むのだ」と違うことを言ってました。実際に四年生になり大学院の進学分野を決めなくてはならない時期に数学教室の教授から「君はもちろん大学院は数学を受けるんでしょ?」と言われました。「いえ、物理教室のほうに書類を出しました」と言って意外な顔をされました。
多分、直前まで数学教室のほうに進学すると言っていたのだろうと思います。

1962年に物理教室の大学院に入ってからも、この浮気性は治らず、一時期、脳の研究が重要であると数人の有志でパーセプト論の勉強を行っていました。しかし、修士論文を書くときには素粒子論の論文を坂田教授の主宰する研究室で準備していました。

この時期、世界では因果律から導かれる分散式に立脚した議論が世界的に盛んでした。チュー(ジェフリー・チュー ?)の唱えるブーツストラップモデルが流行であった。坂田の研究室では1955年に坂田によって提唱された符号粒子模型の研究が主流でした。

研究室では、Gamba Marshak と大久保が、キエフ・カンファレンスで指摘したレプトン(leptons)とバリオン(baryons)の弱い相互作用での対称性に関心が集まっていました。すなわちニュートリノエレクトロンミューオンがプロトンニュートロンラムダに対応していく。この流れでニュートリノが発見されると坂田研究室は自然に四元モデル(? quartet constituent models)が主流になっていきました。1964年に四元基本構成子モデルがジロー・マキにより提唱されました。

この時期、私は論文は書いていないのですが、南部先生の「自発的対称性の破れ」の、あの論文を読み、*****対称性の自発的破れに強い興味を抱いていました。この関係で、カレント代数やPCAC(partially conserved axial-vector current)により導かれるものに興味を持っていました。

興味を広げていく中で1960年の”The Axial Vector Current in Beta Decay – Gell-Mann and M.Levy” や “Question of Parity Conservation in Weak Interactions – T.D.Lee and C.N.Yang”に遭遇できました。

これにより素粒子研究の要に、弱い相互作用を通じて見える素粒子の姿に関心が強まっていきました。この時期、論文は1つも書いてないのですが、”Nambu-Jona-Lasino”の論文をベースにいろいろな物理量を計算してみました。例えば “pion decay constant fπ”は、強く相互作用の典型的な物理量としては小さく感じられました。”Nambu-Jona-Lasino”のモデルのモデルパラメータは相互作用乗数とカットオッフパラメータです。これを動かしてfπを小さくするにはどうするか等を執拗に調べてみました。結局、カットオフの付近の***が一番効いてきて結論がでませんでした。
これを契機に「くりこみ(? renormalizability)」を強く意識するようになりました。

・・・・・・大略・・・・・・

かくして、我々の仕事は終わりました。CP対称性の破れの起源が部分的には解明されたのです。しかしながら、この理論が本当に確かめられるのは30年余りという長い年月と多くの実験家たちの膨大な努力が必要でした。私は、ここに人類の壮大なプロジェクトを支えていただいた世界中の人々に感謝したいと思います。

専門用語、間違いが多々あると思います。
ご指摘いただければ幸いです。

ノーベル財団 : 益川敏英教授 講演動画
ニコニコ動画 : 益川敏英教授 講演動画

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